約5週間のごぶさたでした。コツコツのライブのたびに1曲づつ楽曲を解説していこうという企画も今回で4曲目。作曲もライブのたびに1曲と思って書いているので、(結果的には両方とも遅れがちだが)永遠に追いつかない。いつまでたっても的に当たらない弓矢のような作業ではあるが、こつこつと地道に続けていこう。
というわけで、今回は〈箱の中の猫〉である。
私の家内はアニメーション作家で、いわゆるTVアニメとは少しちがった感じの作品をこれまたコツコツと作っている。一応名前を言っておくと〈浅野優子〉である。昔の名前で出ているのである。私も家内も十数年前からいろいろな活動をしているので、まわりに様々な友人たちがいるのだが、私と家内、別々に知っていて、まさか夫婦だとは思ってもいなかったという人がたまにいる。良い機会だからこのさいおぼえておいてもらおう。
なぜこのような話をするのかというと、最近、家内の前前作〈五つの指の庭〉を見る機会があり、久しぶりにその音楽を聞いてこれは〈箱の中の猫〉に似ていると思ったからである。
〈五つの指の庭〉という作品は、いろいろな多面体(角柱・角すいなど)の各面に動画が描かれているものを回転させながらコマ撮りして動かし、その奇妙な世界の中を卵の鳥が歩き回る、極彩色の立体万華鏡といったようなといった作品で、1988年に作られた16ミリフィルム作品である。
当時、まだ浅野と結婚する前の私が、この作品の音楽を担当したのが、もう9年も前のことで、16ミリの作品は、それほど上映を見るチャンスがなかったので、いくぶん忘れていたようだが、この作品のエンディングに使われている曲が、〈箱の中の猫〉の冒頭に似ているのである。〈五つの指の庭〉の音楽は、一人でチェロの多重録音をして作った曲で、エンディングも含めて、作品全体を通してチェロの開放弦の音(A、D、G、C)と、〈五つの指の庭〉のタイトルから暗示される(5)という数字からなりたつグラウンドのうえに、少し幻想的な旋律がのっかるといった感じの、いかにも10年早い三木が書いた、少し理屈っぽい曲だった。
一方、〈箱の中の猫〉の冒頭は、もう少し俗っぽくこなれて、表記は4分の4拍子、ただし譜わり的には2分の6拍子、奇しくもチェロの開放弦の音はすべて含まれていた。そして、理屈っぽいと言えば、この曲もチェリスト3人で演奏するという制約の中で、さまざまな実験的取組をした曲で、たとえば、4分の3拍子のフレーズを8分の5拍子に変化させて、緊張感の変化を見てみたかったり、二人のアンサンブル上に完全にリズム感の遊離したソロパートをのせてみたり、ひんぱんな転調を3人別々のタイミングでしたり(これは少しヒドすぎたので、第2稿では、ひんぱんな転調を3人同時にする─あたりまえ─に変更して現在にいたっている。)している。
これらの2作品のあいだには、(〈箱の中の猫〉の作曲が96年8月頃なので)約8年の時間的へだたりがあるのだが、この間、個人的には結婚、長男出生、家具屋開業、育児、火事、次男出生、また育児など激動の月日を送っていたわけだが、その間、通常いう人生経験から学ぶでもなく、円熟味を増すでもなく、あいかわらず同じようなことをやってるなあとおどろくでもなく、反省するでもないというようなところが、円熟味を増したということだろうか。
などとだらだらしたことをいっている場合ではない。
〈箱の中の猫〉のテーマは、作曲した当時は意識していなかったのだが、今までだらだら語っていた2つの作品に共通する点、〈理屈〉ないしは〈理論〉ということに関係していたのではないだろうか。
タイトルの由来は、作曲当時、新聞で目にした最近の物理学に関する記事で見た〈シュレジンガーの箱(?)だか猫〉だかということだった。
前回の楽曲解説、〈港のシュトックハウゼン〉に登場した物理学者アインシュタインにひきつづき、今回も物理学者のシュレジンガーがでてきた。シュレジンガーは、ある実験の結果に応じて中のものを毒殺する箱を作り、その中に猫をいれることによって、純粋な意味で〈半死半生な猫〉を作り出すことに成功したという。本当にやってたら相当マッドなサイエンティストであるといわざるを得ない。とはいえ、今の科学文明の進歩は、常識の無い人たちによってのみささえられてきたといって過言ではない。彼らをサポートしていた人たちの多くが常識のある人たちであったため、これだけ便利な世の中になっているのだが、おおもとの発想がマッドなものであったかと思うと、うすらさむい便利さである。
ところで、最近の新聞で見かけた若い作曲家の記事で、彼は〈大学で物理を学んだ異色の経歴の持ち主〉と紹介されていたが、これはどちらかというとまちがった表現で、物理を学んでいた作曲家はざらにいるので、〈異色〉ではなく、〈王道をゆく〉経歴の持ち主である。大御所作曲家の別宮貞雄氏などは、理論物理をやっていて、音楽の世界に転進した時、当時の作曲の理論が「まことに幼稚に思われ」、その逆の方向に行ったと言っている。この場合など、反対の反対は賛成、非常識の非常識は常識といった具合で、興味深い。
ともあれ、物理に限らず、理系出身の作曲家は多い。それもそのはず、ルネッサンスからバロック期を通して、音楽は理科や算数と同じ理数系の科目だったのだから、伝統的な傾向と言うべきか。純粋な好奇心から湧きでる「その先が見たい」という気持ちが物理や音楽をささえているのか。
次男1歳10ヵ月も最近実験にこっている。破滅的調理という実験に。茶わんのご飯にプチトマトを入れ、つぶし、お茶をかける。タコライス茶漬け。(これはまだ食べられる。)「桃屋のごはんですよ」のビンにおしりふきを詰められるだけ詰め込み、次にそれを引っぱり出して、「桃屋のごはんですよ」のついたおしりふきを今度はお茶のコップに詰め込む。(これは食べられない。)長男が小さい頃やった例。アルミの鍋にマヨネーズとケチャップを入れ、リンスをビン半分ほど入れてかきまぜる。(これも食べられない。)本人たちは実に神妙な顔つきで、もくもくと作業を続けている。こんな事がここ5年ほど連日続いている。今後、まだ数年は続くだろう。小さい子どものいる家なら、どこの家庭にも見られるほほえましい光景だが、これを大人の常識をもって無理に抑圧すれば、将来こどもたちが成人した時、自発的な抑制のきかない大人になって、純粋な好奇心から原子爆弾を発明したり、へんてこりんな音楽を作ったりするのかと思うと、人間というのは、つくづく始末におえないものだと実感する。善悪の彼岸。
前回は紙面を埋めるためにグラフィックにはしったが、今回は文字で攻めて見た(せめなくてもいい)。しかし、あいかわらず、あまり「楽曲解説」になっていないような気がしてならない。
1997年 12月 27日 三木黄太(以前ライブで配付したものに加筆訂正を加えました。)