〈メメントモリとプロパガンダ〉楽曲解説

 

ここのところ順調なCotuCotu楽曲解説

 98年6月の1stCD発表以来、月1のハイペースでライブを重ねているCotuCotuだが、おなじみ楽曲解説はおくれる事なく出来ている、と言う事は家具屋はヒマと見た。実際、長引く不況の中、取り引き先の業者はみな景気の悪い話ばかりしている。(どこかがつぶれたとか、不渡り手形をつかんだとか...)ところが、先日ある店舗(テンポじゃないよ)関係のデザイナーが尋ねて来て、「お店やさんの出店、改装はぐっと減ってうちは大変だけど家具屋さんはもうかってるらしいですね。“I”や“K”なんかウハウハらしいですよ。」などと言う。私自身としては全然そんな実感がないのだが、確かに目黒通り沿いには家具屋がふえているような気がする。そうか、世間では家具屋はもうかっているのか....。そう言えば最近、無給の研修生の応募がヤケに多い。雑誌に紹介された(「室内」6月号に自宅が紹介された。家具屋の自宅と言うくくりの記事なのだが、他のお宅にくらべて、私の自宅のなんとハチャメチャなことよ)せいもあるだろうが、来る人の多くが「家具屋はもうかる」と思っているフシも見うけられる。「そうか、おれの家具だけが売れないのか。」と思いつつ、今後、子供の教育費などもかさんで行くだろうと考えると、少しは売れスジ路線の事を考えてみたりもする。

 そもそも家具にしても音楽にしても売れないためにやっているわけではなくて、以前にも書いているが、売れたい、人気者になりたい、若い娘にキャーキャー言われたいと思って続けているのだけれども、方法論が根底から間違っている。「四十にして惑わず」40歳の事を「不惑」などという。人間40年かかってやって来た事は今さら変えようもない事だというのだろうか。四十まで、残すところ2年。

メメントモリとプロパガンダ/Mementomori and Propaganda

 前々回の楽曲解説で少し触れた、曲当てホモだちのF君がある時コツコツのライブに来て言った。「三木さんの曲名は“何とかの何々”というパターンが多い。」

 そう言われればそんな気がする...どころか、確かにほとんどの曲が“◯◯の◯◯”になっている。「三の1」しかり「チャウシェスクの逆襲」しかり「港のシュトックハウゼン」しかり「箱の中の猫」しかり。その時点で唯一の例外は「天孫降臨」だった。「コリャ一本とられた」と思った事が今回の「メメントモリとプロパガンダ」の出発点であった。

 そういえば、家内のアニメーション作品のタイトルも「蟻の生活」とか「五つの指の庭」とか「水辺の植物」など、“◯◯の◯◯”系が多い。タイトルというものは往々にして“◯◯の◯◯”になりがちかと思いきや、たとえばパスカルズのCDを見てみると、「真実は行進する」「サンバ」「スカタリアンロジコ」「雑草」....唯一「貝のみみ」だけが“の”系になっている。ひょっとして我々は“の”系夫婦だったのかと始めて自覚する。ちなみに、坂本君の曲は「半夏生」だったり、「嵐が丘」だったり、「月魚」だったりして、やはり“の”系ではない。

 F君の指摘により、私達夫婦が「ほっておくと“の”系タイトルを付けがちな夫婦」である事がわかった今、それを乗り越えて行くための意図的な努力をしてゆかずばなるまい。

 そして“と”系タイトルに挑戦する。

 “メメントモリ”とは「死を思い出せ」という意味のラテン語で、美術や、音楽作品のタイトルとして実によく使われる言葉である。ある日、新聞記事で、どこぞの国でおこなわれた現代音楽の作曲コンクールで、1位をとった日本人の記事を目にした。そのタイトルも“メメントモリ”だった。(もしかすると“弦楽のための”とか、“オーケストラのための”とか付いていたかも知れないが)そして、日本のとあるメジャーバンドのアルバムタイトルも“メメントモリ”。

 美味しいものを食べたり、恋人と楽しく過ごしている時に“メメントモリ”などと言われると、一気に楽しくなくなっちゃうような言葉だが、こうもひんぱんに目にしているとなんか、カッコイイ流行り(“はやり”と読んでくれ)言葉なんじゃないかと思った私は、さっそく乗り遅れまいと新作のタイトルに取り入れてみた次第です。

 そして、今回の課題である“と”系タイトルへの挑戦であるが、“の”系タイトルがある物事を別の言葉が修飾しているのに対して、“と”系タイトルは二つの物事を対立、併置する関係であるので、何か“メメントモリ”と違うものを持ってこようと思ったわけなのだが、ところがこの“メメントモリ”という言葉は結構な曲者で、多くの芸術家にさんざん使われただけあって、含蓄がある。いいかえればすべてを含んでいる「世界」のような言葉なわけです。これはやっぱりおれの手には負えねえ。と、何度やめようと思った事か。

 でも、“プロパガンダ”チャンチャン(四度上向)ってなもんで結局はあっさりと決まった。我々は情報を得る事によってのみ世界を感じ取っている。それを利用し、与える情報をあらかじめ選んでおく事によって他人の中に世界を作り上げてしまう。こんな行為をプロパガンダという。ナチス政権下のドイツ国民や、スターリン指導下のソビエト国民だけが対象であったわけではない。テレビやラジオや新聞などを見たり、コンビニやタワーレコードの商品棚を見たりして、何かが流行っている(“はやっている”と読んでくれ。くどいか。)とか、何かが価値あるものだとか、何かを買いたいとなどと思ったり、何かを買うにはお金が必要だとか、時給850円で何時間働いたらいくら稼げて、その稼ぎは、欲しいと思っている何かにあたいするとか。

 人類レベルだったり、国家レベルだったり、個人レベルだったりするかも知れないけれども、この世の中のすべての表層を支配するプロパガンダの数々が、意味シンで含蓄ありげだが小洒落たひびきの“メメントモリ”に対置するにふさわしいと考えたのである。

 さて、この曲は、最初はCotuCotu三人のみで演奏されるべく作曲された。ところが、あるライブの際、おなじみロケットマツさんがゲスト出演してくれるということで、後から1パート書き足してみた。それで何回かやってみてみると、今度は、マツさんなしでは何か足りないのではないかと思えるようになってしまい、せんだってのレコーディングでは見送られてしまった。メガネをかけている顔を見なれた後にメガネをはずした顔を見るような、普段、服を着せているぬいぐるみの服をぬがして見た時のような、さらに言うなら、いつも首輪をしている犬(猫)の首輪を取ってみた時のような感じである。要するになんかこう、気恥ずかしいのである。

 そして、今日のライブでは“チェリスト”四家卯大さんが我々“チェロリスト”に殴り込みをかける形で(どんな形だ)、問題のパートを弾いてくれる予定です。昨日(98.8/3)練習で合わせてみたのですが、「スゴイ」の一言。鍵盤楽器用に書いたト音記号の譜面をほとんど初見で弾きまくる卯大さんには、普段めったに感服しない私も感服しまくりました。

 このシチュエーション、たとえて言えば、任侠道をわきまえない新興ヤクザの事務所に、古いタイプのヤクザ(高倉健)が単身乗り込んで行く。昔の映画館ならここで観客席から「意義なし!」の声。チンピラをバッサバッサと切り捨てて行くのだが、中には気のきいた(ひきょうな)チンピラがいて、飛び道具などを使う(坂本か?)。スペースがないのでここで唐突に終わる。                      

(98.8.4 三木黄太)

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